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011 高橋民俗学


『遊』では工作舎スタッフも多くの原稿を担当した。営業部長、高橋秀元さんの連載「中世観念技術攷」は、熱心な読者からの反響が多かった。「玄人筋」からの評価も高い。現在は、編集工学研究所のHPで「言葉の景色」の連載を行っている。相変わらず濃い。


◎海の彼方から漂着する畸型神をエビスという。エビスは足萎えで耳が遠く、左ぎっちょだという伝承が各地にある。海民たちは、漁期の初めに目隠しをして海中から拾った石をエビスの御神体とし、また、鯨、いるか、鮫、水死体、難破船の破片まで、思いかけず漂着する海の異物をすべてエビスとして尊んでいる。山中では鹿の心臓、猿をエビスとする。エビスは最遠方の世界から強力なサチをもたらす、最も有難く、最も怖るべきカミであった。(『遊』1003「藻虫論」)


◎この三神のうち、月神については、その後、いっこうに語られぬままである。しかし、日本人は月を見つづけていたはずである。いかに官選の史書が、あの月読命について語らなかったからといって、毎夜見上げる月神を忘れ去ることはなかった。太古の月神は、変型しながら、奇妙な物語の中に、影をひそめていた。(『遊』1004「月虫論」)


◎「竹取物語」は多くの要素をもっているが、ひとつの要請は、現人神としての天皇の否定を含むラディカルな見解を展開していると見なせる。この世の隅々まで国の範疇にあり、もはや他界は観念の中にしかない時、それは「竹界から月世界」の中に想定されたのだった。(『遊』1008「竹虫論」)


◎つまり、「マネ」ということが非常に重要だったし、それが神と人との媒介法だ。最近気がついたけど、「マ」というのは「真」の意味と「間」の意味があって、その観念は「二」ということなんです。神人合体して、総体であり完全だということだ。つまり神秘と既知の合体、不可知と可知の合体だといっていい。真似というのは、その間をつめるための方法だった。(『ハレとケの超民俗学』)


◎「マル」は船の名前についたり、少年の名前だったり、もちろん歌人に「マロ」のつく人は多いし、公卿なんてみんな「マロ」を自称しているけれど、それらはみんな同じ発想でつけられている称号なんだね。何か媒体なんだね。道教や禅なんかで丸をザッと一気に書くことで、ある境地を示すわけだけど、それも同じでしょう。(『ハレとケの超民俗学』)


◎『万葉集』の有馬皇子の歌に「笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば……」という歌があるけれど、それは茶碗というか食器という意味が「ケ」でしょう。……つまりケの状態は食べることとかかわりがある。日本でも、オリエントでもそうだけど、食物の神というのは虐殺されるんです。日本では、オオゲツヒメという神様がそうで、その「ケッヒメ」というのが「ケの媛」という意味で、食物神です。……それから、和歌によく「けながし」なんて出てくると、日が長いということで、心理的な時間の長さですね。そのひとかたまりが「ケ」。それから、昔、公卿はもちろん武士百姓だって、誰でも食べること自体が儀礼的だったでしょう。膳の上の椀の置き方、はしの置き方まで決まっていて、それ自体の構造がまた世界の配置に似せてあった。(『ハレとケの超民俗学』)


◎……こうした構造を維持していた結界が、歴史に従って、幾層にも分かたれたからだろう。家の境が「サク」で、村の境が「サカ」で、国の境が「サカイ」で、海と陸の境が「サキ」で……というふうにね。その境を越えたり、入ったりする構造の確認において、そのエネルギーは高められていた。いわば、他者を自分の結界内に入れる瞬間、自分の方は空虚で、つまり「ケ」の状態を作り、自分が境界を越えて、他者の方に入る瞬間、なにか充足して、つまり「ハレ」になっている。そういうことでしょう。その境界の部分で、「ハレ」「ケ」「ハレ」……とやりとりするのが「アソビ」でしょう。……ところが、国の規模が拡大すると境界も観念化したものになるし、小単位の境界性は重視されなくなる。(『ハレとケの超民俗学』)