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ルネサンス・バロックのブックガイド

第10回
ポール・アザール
『ヨーロッパ精神の危機 1680-1715

◉野沢協=訳・法政大学出版会・1973年・749頁/新装版2015年・770頁


『ヨーロッパ精神の危機』

絶妙なバランスで成立していた古典主義的な17世紀ヨーロッパ。この信仰と政治と美のアマルガムがあっというまに瓦解するとは、だれが想像しただろうか。この危機は、内乱や外敵、ましてや不況によるものではない。それはわずか30年のあいだに起きた思考の転換によるものだという。この大著が描きだすのは、この性急なるヨーロッパ精神の転換である。

危機をつくりだした主犯はデカルトである。もちろん彼が従来の命題を徹底的に検証したのは、懐疑に耐えうる土台を構築するためであった。だがこの作業は彼の死後、予想だにせぬ方向に発展する。一度開かれた批評のまなざしは、あらゆるものへと向かうのだ。そう、信仰にさえも。この時期に大量に印刷された旅行記もこれを後押しした。シャムや中国はキリスト教なしでもよろしくやっていると。こうして啓示ではなく理性、奇跡ではなく自然の法則が重宝される。聖書さえもが批判を免れ得ない。シモン(Richard Simon, 1638-1712)の本文批評が良い例であろう。ベール(Pierre Bayle, 1647-1706)も負けてはいない。彼の『歴史批評辞典』は、あらゆる神話や伝統に戦いを挑む。すべてを疑うのだ。これには伝統を死守する側もかなわない。宮廷説教師ボシュエ(Jacques-Bénigne Bossuet, 1627-1704)や新旧の教会合同を切に求めたライプニッツの努力はおよぶべくもない。

危機がもたらしたのは破壊だけではなかった。フランス革命の精神の大部分がこの時代に現れていると著者はいう。絶対的な主権者ではなく、平等な市民が統治する政体。神法ではなく、自然法。道徳もまた宗教を必要としない。地上での生は来世の行き先によってではなく、苦の最小化と快の最大化によって導かれるから。この時代には情熱もほとばしっていた。叙事詩や悲劇が与えられない感動と笑いをオペラはもたらす。宗教においても、権威を振りかざす教会組織を離れ、魂の深いところでうねりをあげる情熱の導きを信じた人々があらわれた。彼らは誠実さを欠いた聖職者たちを断罪する。自由で自発的な愛の共同体こそが彼らの目指す敬虔な宗教であった。

こうして危機は新しいヨーロッパ精神を生んだ。この精神は現代においても生きていると著者はいう。政治的な暗雲立ちこめる、原著が刊行された1935年においてさえも。

(加藤喜之)


[目次より]
第一部 心理の激変
 第一章 静から動へ
 第二章 旧から新へ
 第三章 南から北へ
 第四章 異端
 第五章 ピエール・ベール
第二部 伝統的な信仰を倒せ
 第一章 理性派
 第二章 奇跡の否定――彗星、神託、妖術師
 第三章 リシャール・シモンと聖書釈義
 第四章 ボシュエの戦い
 第五章 ライプニッツと教会合同の失敗
第三部 再建の試み
 第一章 ロックの経験論
 第二章 理神論と自然宗教
 第三章 自然法
 第四章 社会道徳
 第五章 地上の幸福
 第六章 科学と進歩
 第七章 新しい型の人間を求めて
第四部 想像的・感性的価値
 第一章 詩のない時代
 第二章 生活の万華鏡
 第三章 笑いと涙、オペラの勝利
 第四章 民族的・民衆的・本能的要素
 第五章 不安の心理学、感情の美学、実体の形而上学、新科学
 第六章 燃える心


ベール『歴史批評辞典』表紙
ベール『歴史批評辞典』表紙


[執筆者プロフィール]
加藤喜之(かとう・よしゆき): 東京基督教大学神学部准教授。初期近代思想史、宗教哲学。共著書に、『記憶と忘却のドイツ宗教改革─語りなおす歴史1517-2017』(ミネルヴァ書房、2017年)など。researchmap




◉占星術、錬金術、魔術が興隆し、近代科学・哲学が胎動したルネサンス・バロック時代。その知のコスモスを紹介する『ルネサンス・バロックのブックガイド(仮)』の刊行に先立ち、一部を連載にて紹介します。




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