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ケストラー『ホロン革命 新装版』
見本できました


『ホロン革命 新装版』写真

6月の新刊、アーサー・ケストラー著『ホロン革命—部分と全体のダイナミクス』の見本ができました。

青紫からオレンジ色のグラデーションの地に、銀箔をほどこしたタイトル・著者名が煌めきます。 1983年に刊行した旧版は、黄色地に黒色のインクで強いインパクトがありましたが、新装版は繊細なデザイン。



『ホロン革命 新装版』背 『ホロン革命 新装版』表4
『ホロン革命 新装版』本文 『ホロン革命 新装版』本文
レイアウトを組み直したため旧版とは、本文組が変わりました


「部分」と「全体」、「全体主義」と「還元主義」の矛盾を超える画期的コンセプト「ホロン」を提示し、原著刊行(1978年)から40余年を経てもなお、刺激的な書物です。冒頭の一文をお読みください。

プロローグ 新しい暦|1ポスト・ヒロシマの課題 (目次はこちら)

 有史、先史を通じ、人類にとってもっとも重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく1945年8月6日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は「個としての死」を予感しながら生きてきた。しかし、人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は「種としての絶滅」を予感しながら生きていかねばならなくなった。

 人間一個の存在ははかない、そうわれわれは教えられそれを受け入れてきた。が、他方では、人類は不滅であると当然のごとく信じてきた。しかし、いまやこの信念に根拠はない。われわれは基本的前提を改めねばならない。

 それは容易なことではない。新しい思想が人の心をとらえるには時間がかかる。宇宙における人間の地位を根本から下落させたコペルニクスの学説。それがヨーロッパ人の心のうちに浸透するまで、一世紀近くを要している。まして人類は滅びる運命にあるなどと、その地位をさらに下落させる話はいっそう受け入れがたい。

 事実この見解はじゅうぶん理解されぬまま、すでに色あせてしまった感さえある。ボストン茶会事件にも似て、ヒロシマの名ははやくも陳腐な歴史用語になりさがり、世の中は正常に戻ったかに見える。原子核というパンドラの箱を開けて以来、人類は借りものの時間を生きている。だがほんのひと握りの人間しか、この事実に気づいていない。

 いつの時代にも危機感をあおるカサンドラはいる。しかし人類は、かれらの不吉な予言をこれまでどうにか切り抜けてきた。だが、もはやそんな気安めは通らない。過去に一部族が、あるいは一国家が、この惑星を不毛の地にかえるほどの装置を手にしたことは一度たりともなかった。せいぜい敵に局部的な損害を加えるぐらいのことだった。事実、機会さえあればそうしてきた。しかしいまや全生物圏を人質にし、身代金を要求することさえできる。実際ヒトラーのような人物が20年遅くこの世に現われていたら、原子の神々を目覚めさせ、それを実行していたにちがいない。

 困ったことに、いったん発明されたものは無に帰すことができない。いまや核兵器はすっかり定着し、人間の条件の一部になった。人類は永久に核兵器をかかえて生きていかねばならない。つぎの大戦危機をやりすごせばよいというのではない。つぎの10年、つぎの100年という問題でもない。人類が生存するかぎり「永久に」である。もっとも現状からみて、その永久はさほど長いものとはおもえないが……。

 こう結論するにはふたつ理由がある。ひとつは技術的な問題だ。核兵器が強力になり製造も容易になるにつれ、尊大なる老国家へはもちろん、未熟な新興国へも必然的に核は拡散し、いきおい核兵器製造の全地球的管理は実行不可能になる。近い将来、人類やイデオロギーを問わず、地球上いたるところで核は大量に製造、貯蔵されるにちがいない。となれば、遅かれ早かれ、故意にしろ偶然にしろ、連鎖反応に火がともる可能性は増大し、ついには不可避となる。この状況は可燃性物質を積みあげた室に不良少年の一団を閉じ込め、使ってはならぬなどとまことしやかなことを言いつつ、かれらにマッチを与えるのに似ている。

 ヒロシマ以後の人類の余命を減少させている第二の理由。それは、過去の記録によってあばきだされた人類の妄想傾向である。文明の進んだ惑星から公平な観察者がやってきて、クロマニヨン人からアウシュヴィッツまで人間の歴史を一望すれば、人類はいくつかの点で優れてはいるが、概してひどく病的な生物で、それが生き残れるかどうかを考えるとき、その病の持つ意味は文化的成果など比べものにならないほど重大である、と結論するにちがいない。人間の歴史を通じて間断なくとどろく音は、戦いを告げる太鼓の響きだ。部族の戦い、宗教戦争、市民戦争、王家の争い、国家間の戦い、革命戦争、植民地戦争、征服のための、自由のための戦争。そして戦争を終わらせるための戦争。過去をふりかえれば、戦争が鎖のごとく連なっている。そしてどう見ても、その鎖は未来へと伸びている。ペンタゴンの記録によれば、ポスト・ヒロシマ(PH)時代の最初の20年間、つまりPH元年からPH20年(時代遅れの暦でいえば、1946年から1966年)の間に通常兵器による戦争が40回おきている。このうち少なくとも二回、つまり1950年のベルリン、1962年のキューバ危機は、あわや核戦争突入というものだった。希望的観測という慰めを捨てれば、以後も戦争の危機をはらんだ地域が天気図の上の高気圧帯のように、地球上を移動していくと考えざるをえない。局地戦争が全面戦争に拡大するのを阻止する唯一の安全装置が相互抑止力だが、それは完全無欠とは言いがたい指導者や狂信的政体の自制心に依存し、はなはだ頼りない。しょせんロシアン・ルーレットのようなゲ―ムは、長くはつづかない。

 驚くばかりの人類の技術的偉業。そしてそれに劣らぬ社会運営の無能ぶり。この落差こそ、人類の病のいちじるしい特徴である。はるかかなたの惑星のまわりに人工衛星を打ち上げることはできても、北アイルランドの政情はどうすることもできない。地球を脱出し月に降りたつことはできても、東ベルリンから西ベルリンへ足を運ぶことはできない。顔に狂った笑みを浮かべ、手に未開人のトーテム・シンボルをかざしつつ、プロメテウスは星に手をさしのべる……。


発売は、もうすぐ6月3日予定です。どうぞお楽しみに。
*本書は工作舎50周年記念出版(記念プレゼントはこちらをご覧ください)。




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