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『鳥たちの舞うとき』の編集秘話[鳥たちの舞うとき]

「本を選ぶ NO.189」(ライブラリー・アド・サービス発行)より再録

本は生死を超える

高木さんが最初で最後の小説に託したメッセージ

 高木仁三郎さんから届いた2000年の年賀状には、「今年1年はなんとか生き永らえそうな気がしていますが、十川さんからの宿題は果たせそうにありません」と走り書きがありました。  

 高木さんとはほぼ20年前、明治以降の科学論のアンソロジー「世界のなかの科学精神」(『日本の科学精神』5/1980、工作舎)の巻末の座談会に登場いただいたとき以来、「いつか本をつくりましょう」という年頭の挨拶がわりの言葉をほぼ毎年かわしてきたのです。  座談会のおりに、核化学を専攻した動機のひとつに極微の世界の審美性にひかれたからと話されていたことがとても印象的で、ぜひともその初心を彷彿とさせるような本格的な物質論を書き下ろしてほしいと願っていました。プルトニウムの恐怖を熟知する高木さんが、科学者を魅了してやまない物質の姿、いのちを宿す物質の妙に迫るとどんな展開になるのか、愉しみにしていました。

 ただし周知のとおり高木さんは脱原子力社会実現のためとあれば、日曜祭日もなく東奔西走の日々を送る身。しかも、ひとたびもんじゅの事故やJCOの事故などが起これば、状況を冷静に科学的に解説できる人はほかにいないとあって、マスメディアにひっぱりだこ。一見火急のテーマではなさそうな本づくりは、なかなかむづかしいのかなあと、遠くから思うばかりでした。

 1997年に環境のノーベル賞といわれる「ライト・ライブリフッド賞」を受賞したおりのお祝いのパーティでも、「年賀状の一言はいつも気になっているんだけど」と間欠泉のような本づくり打診が届いていないわけではないことを示してくださいました。おそらく300人近く集まったそのパーティにも出版関係の編集者はたくさんきていましたし、またこのとき発表された、賞金約370万円を基金にした「高木学校」設立によって高木さんの身はますます忙しくなりそうなので、まだ当分実現は無理だろうなあと、納得するほかありませんでした。

 さらに翌98年夏、なんと大腸ガンがすでに転移しているとは! 原子力資料情報室の代表もしりぞき、高木学校の校長として後進の市民科学者育成に専念するとのこと。しかも入退院をくり返しながらとあっては、もはや遊び心にあふれた本づくりは夢のまた夢と、あきらめるほかありませんでした。

 99年10月には、原子力資料情報室のNPO法人化と世代交代のおひろめを兼ねた集まりがありました。高木さんは少しやつれたようでしたが、とても快活で、JCOの事故をうけて「僕もバケツをもって走ったことがあったからなあ」とガンのひきがねになったかもしれない研究者時代をブラックユーモアでふりかえっていました。

 「お元気そうですね」
 「人前だとね」
微笑んではいたものの、目は笑っていなかったのが気になりました。
 冒頭にあげた2000年の年賀状を受けたときには、スーザン・ソンタグだって、スティーヴン・ジェイ・グールドだって、ガンを告知されながら回復したのだから「高木さんだってきっと…」と、また楽観のほうに傾いていました。
 工作舎と原子力資料情報室のホームページの相互リンクの依頼のような事務的な相談にも、メールで気軽に応じてくださり、「無理さえしなけれひょっとすれば…」の思いがますます強まりました。

 7月31日、高木さんから「ご相談」のメールが届きました。
 「大分以前ですが、一度は小説を書きたい(これは結構大勢の人に言い触らしていることです)、その時には、工作舎から出させてくれるかなあ、と言った覚えがあるのですが(これは色々な人に言ってはいない)、覚えていますか。
 あれは約束ではないので、拘束される必要はないのですが、実は今その小説に挑みかけているのです。もっとも、私は体調がいよいよ、辛く、先が見えてきました(もう何カ月仕事ができるか)。いまも、普通に原稿書きはできず、もっぱらテープ吹き込みです。原子力や科学技術の問題では、もうほとんど言い尽くしてしまったので、懸案の小説をテープ吹き込み中ですが、全然ダメ。もともと、口べたの上に、未だ小説の構想がいまいちしっかり頭に入っていないので、とても吹き込んで起こせば小説になると言うようなものはできない。
 2章ほど吹き込んでみましたけど、たどたどしくて、とてもダメです。何しろ小説というのは、文学的味わいに力点があるので、文章も僕としては懲りたい、しかし、今吹き込んでいるのは、エーとあーしてこーして、こうなった。と言うレベルのものです。やるとなれば、いったんそのつたないものを起こして……最後には、自分で文章に手を入れて、自分でも読めるようなものにする。それも、現在の僕の状況を考えると、拙速と言われるほどの大急ぎでやって、間に合うかどうか。500-600枚くらいか。
 それでも、やってみたいのです。内容は、少し込み入っていて、今このメールでは少し疲れてきたので、ここでは止めておきます。大ざっぱには、『いま自然をどうみるか』の延長にあります。もし、興味があるならレスポンス下さい」とのこと。

 小説は、工作舎にとって決して得意なジャンルではないので、とまどいはありましたが、その晩すぐ電話して「とにかくどんな内容になるのか、検討させてほしい」と伝えました。小説を構想するほど気力が充実しているのなら、ガンも克服できるのかもしれない。本づくりが治癒あるいは小康状態の維持に少しでも役立つなら、喜んで協力させていただこう。年内に原稿をしあげたとしても、刊行は来春になるだろうと見当をつけました。

 ところが8月21日には、冒頭部の手書き原稿と11本のテープがすべて送られてきました。タイトルは『鳥たちの舞うとき』。目次、登場人物のプロフィール、舞台となる天楽谷の地形のスケッチもそえられていました。冒頭部はダム工事車の転落事故の新聞記事ではじまり、なにやらサスペンスタッチ。誰にテープを起こしてもらうにしても、まず録音状態をチェックしなければと聞き始めると、時間と競いながら吹き込みをつづける息づかいが直接ひびいてきました。もはや誰かに起こしてもらってそれをチェックするほどの猶予はないのだと合点し、全速力で併走しようと心に決めました。

 余命半年を宣告されながらも、ダム建設反対の住民運動に深くかかわってゆく主人公草野浩平の時間の流れ。随所に流れるモーツアルトの音楽がひきおこす時間を超えた感動とケッフェル番号が暗示する作曲家の実人生の時間の推移。それに高木さんのいのちの時間の流れ。
 天楽谷の鳥たちのリーダー、トンビのアオと主人公草野浩平と恋人摩耶の三角関係(?)を口述するときには、ユーモアをこめながら照れくさそうに、アオが鳥たちの権利を主張するときには力強く、声の調子は自由闊達に変化して、高木さんは愉しそうでした。それでも7本目のテープの最後あたりで声音は急変し、「これは本として出せるかどうかまだわからないし、私の体調も怪しくなってきたので、最後まで口述できるかどうかはわかりませんが、私のいわば遺言として残しておきたい」と切々と語っていました。
 どんな活動、どんな仕事、どんな創造行為もいのちとひきかえにやっているのだという当たりまえの事実をこのときほど痛感したことはありませんでした。とにかく間に合ってほしい、間に合わせねば。

 31日にはテープ起こしを終え、「プロット、構想は大変面白いので、きちっとブラッシュアップなさる体力・気力の保持を」とメールを送りました。
 「基本的に認めていただいたようでとても嬉しいです。確かにあんなテープですから、これから勝負なのですが、望みが湧いてきました。しかし、体調は日増しに悪く、間に合うかどうか際どい勝負です。……少し具合の悪いことは、最後の試みで私が、免疫療法のため東京女子医大に短期間入院するかもしれず、少し予定がはっきりしないことです」とすぐ返信がありました。
 9月4日に調布のお宅を訪ね、起こした原稿と加筆要請のメモを渡しました。高木さんの衰弱は明らかでしたが、本づくりという名目のおかげで、かろうじて平常心を保つことができました。

 18日には加筆原稿が届くのとほぼ同時に電話があり、「少し速いけど、聖路加国際病院のホスピスに移りました。いい環境なので加筆できるかもしれない」とはずんだ声で知らせてきました。届いた原稿には、手書きは辛いはずなのに、もうひとりの主人公・平嘉平の裁判の冒頭陳述、環境調査団のレポート、摩耶がホスピスにはいった浩平にあてた最後の手紙がしっかりした筆致でつづられていました。
 27日に加筆原稿もふくめ最終原稿をワープロ化してホスピスに届けました。さらなる加筆要請も認めてくださり、相変わらず明晰でした。でも顔は変化していて、もともと鳥めいている顔が、まさしく第3の主人公アオさながらに鳥めいていました。
 「できるかぎり要望には添いたいけど、勘弁してもらうほかないかもしれない」が本づくりに関する最後の言葉になりました。
 10月3日には高木久仁子さんから「加筆はまったくできない状態なので、このまま送り返します」との電話がありました。小説の構想自体をふくらませることは断念し、次の目標は、高木さんがぎりぎりまでいのちを注いだ原稿の仕上げを急ぎ、完成した本をお目にかけることに切り替えました。

 10月8日午前0時55分永眠。

 覚悟はしていたものの、あまりにも早い逝去でした。萎えそうになる気持の唯一の支えになったのは、高木さんが小説に託した夢は生きつづけていることです。思い半ばにして逝かざるをえなかった高木さんの胸中を語れる方は、パートナーの久仁子さんをおいてほかにありません。心身ともにいちばんお辛い時期であるのを承知のうえで、「あとがき」のためのインタビューをお願いしました。
 さすがに「闘いの同志」でもあった方、ご快諾くださり、98年夏以降の病状の進行状況やこの小説にかけた高木さんの思いを語ってくださいました。

 久仁子さんの話と前後の経緯をふりかえってみれば、7月時点ではすでに「年内いっぱい」と告知され、7月10日「高木基金の構想と我が意向」という遺言にあたる覚え書きを記していたとのこと。高木さんの意向を死後も持続させるため、2000万円の私財をもとに市民科学者支援の基金を設立する。しかも葬式は簡素に身内だけですませ、かわりに「偲ぶ会」を日比谷公会堂で大々的にひらき、高木基金への募金をつのるように指示していたというのです。
 そこまで果たしてなお残された夢。それが小説『鳥たちの舞うとき』でした。私が望んでいた物質論は、いのちを宿し、何十万羽の鳥たちの舞として天にはばたいてゆきました。

 11月20日に晴れて刊行。反響は絶大でした。生活クラブ生協『本の花束』の斎藤文一氏の紹介、『毎日新聞』の中村桂子さんの書評、『朝日新聞』天声人語の紹介。『週刊読書人』では金森修氏が「一つの本を介して一つの美しい人生を改めて感じることができた」と追悼。TBS「筑紫哲也ニュース23」の金平茂紀編集長による特集や、NHK「BS2ブックレビュー」での佐高信氏による紹介など、テレビのパブリシティも相つぎました。
 さまざまな職業、年齢層の方々からの読者カードも増え続けています。
 高木さんの「希望の種をまく」という夢は、今なお確かに生きつづけているのです。

編集長・十川治江




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