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特集:消されたのは誰か?−ブルーバックス『科学史から消された女性たち』絶版・回収事件に見る現代日本 text=川島慶子(名古屋工業大学)

ロンダ・シービンガー著『科学史から消された女性たち』は、女性科学者たちが17世紀以降の科学史から抹殺された背景や性差の価値観に迫る労作です。それが決して過去のことではないと痛感させられた出来事が、奇しくも同名タイトルのもう1冊の書物によって、引き起こされました。女性(および男性)研究者の成果盗用に対する正当な絶版・回収要求が、見当はずれなバックラッシュを巻き起こしたのです。この経緯について、当事者のひとりである研究者・川島慶子氏の書き下ろしテキストを掲載します。

[目次]
●1.事件の発端
●2.事件の展開
●3.事件とバックラッシュ
●4.明日に向けて
●参考文献
●プロフィール

科学史から消された女性たち
『科学史から消された女性たち』
ロンダ・シービンガー=著/ 小川眞里子+藤岡伸子+家田貴子=訳


1.事件の発端

 最初に三重大学の小川眞里子さん(0)からメールがあったのは2006年1月26日だった。「『科学史から消された女性たち』(大江秀房著, 講談社)をもうご覧になられましたか。工作舎の訳本をすべて無視していて信じられません」という内容に驚き、さっそく書店におもむき、問題の本を買ってみた。大江秀房氏という男性科学ジャーナリストが書いた本(以下「大江本」とも略す)のテーマは、その副題「ノーベル賞から見放された女性科学者の逸話」からもわかるように、20世紀以降のことがらが主なテーマとなっている。しかし私たち科学史を研究するものにとっては、「科学史から消された女性たち」というのは、単なる文章というより、国際的に有名なフェミニスト科学史研究者ロンダ・シービンガーの名著 The Mind has No Sex? の邦訳タイトルなのだ。これはこの事件を知らせてくれた小川さんほか、2人の日本人女性研究者が和訳し、十川治江さんという女性が社長をしている工作舎から1992年に出版されている(以下、「工作舎本」とも略す)。ちなみにこの邦訳タイトルは、十川さんたち工作舎スタッフのコピーである。

 驚きはそれだけではない。先にも述べたが、大江本の主眼は20世紀であるが、そこにはシービンガーの本に書かれた時代(中世から19世紀ヨーロッパ)の話題も、「科学のひろば」という部分でとりあげられている。2冊の本に登場する女性たちにはあきらかな重なりがある。だから十川さんや小川さん、そしてわたくしの3人が「作者の大江氏やブルーバックスの担当編集者が工作舎本を知らないはずがない」と思い込んだのは当然のなりゆきだった。じっさい、色々な研究会などで大江本の話をしたら、そこにいた同僚の全員が「何、シービンガーの本のタイトルと中身を盗ったの!」と即座にわたくしに返答したのだ。

お母さん、ノーベル賞をもらう
『お母さん、ノーベル賞をもらう』マグレイン=著/中村桂子=監訳

 だからわたくしは、大江本の後ろの参考資料に工作舎本の引用がないのに激しい怒りを感じた。しかも、シービンガーの原典についての記載もない。また、ノーベル賞をとりそこなった女性というなら、やはり工作舎から出ているシャロン・マグレインの『お母さん、ノーベル賞をもらう』という有名な本についても当然記載があってしかるべきなのに、こちらは原典だけ示して和訳を書いていないというありさまである(大江本, p.265)。ほかにもある、アインシュタインの最初の妻、ミレヴァ・アインシュタインの有名な伝記も、工作舎から出ている和訳『二人のアインシュタイン』 を示していない。こちらは作者名および原典すらしめさず、編集者名と英訳だけを示してある(大江本, p.262)。これでは工作舎が踏んだり蹴ったりとしか言いようがない。

 この時点でわたくしは著作権法について詳しく知らなかった。こんな明らかなタイトルのパクリは即座に処罰の対象になるだろうと高を括っていたのである。ところが十川さんから「タイトルは著作権法の対象にならない」ということを知らされた。「そんなばかな!」というのが最初の反応だったが、よく考えれば『日はまた昇る』だの『失楽園』だの、昔の有名な本のタイトルと同じタイトルの現代の本はいっぱいある。しかし、知らぬものなきミルトンの『失楽園』と、つい最近のシービンガーの本が同じレベルで語られていいのか。これが法律なのか。私は事の次第に唖然としてしまった。

二人のアインシュタイン
『二人のアインシュタイン』トルブホヴィッチ=ギュリッチ=著/田村雲供+伊藤典子=訳

 法律の壁にぶつかってわたくしはしばらく放心していたのだが、ともかく大江本をちゃんと読もうと決心した。金を払って買った以上、中身を読んで、タイトル以外の問題点を見つける必要があった。いくら法律が許しても社会倫理というものがある。ジャーナリズムが社会正義を叫ぶのなら、これを放置することは、日本の科学ジャーナリズムの腐敗を許すことに他ならない。わたくしは科学史にかかわる一研究者として、かねてより日本の科学ジャーナリズムのレベルの低さは問題だと思っていた。しかし、こうなるとレベル以前にモラルである。だいたい、『科学史から消された女性たち』などというタイトルで本を出し、序文で「本書を通じて注目してほしい点がある。それは周囲の水を引き寄せる噴水のように、名の知られた科学者が周囲の無名の功労者たちから名声を吸い上げてしまう現象である。[...]しかも名声を吸い上げられた人の多くは女性たちであった(大江本, p.6)」と書いておきながら、女性研究者や女性翻訳家の仕事を盗り、知らん顔をしているというこの作者の態度がわたくしには許せなかった。



2.事件の展開

 この時この本にどのような問題があるのか、なにか具体的な予想をしていたわけではない。しかし有名な本のタイトルを黙って借用し、それに一切触れないなどということをする人物はほかにも何かおかしなことをしているに違いないという確信はあった。問題点をできるだけ早く見つけるために、まずはわたくしの専門部分、つまり18世紀フランスの科学史について書かれた部分(化学革命の父、ラヴワジエの妻であったラヴワジエ夫人、ニュートンの『プリンキピア』唯一の仏訳者であるデュ・シャトレ夫人の部分)を読むことにした。

 ここで驚くなかれ、大発見をしたのである。ラヴワジエ夫人の部分に、何とわたくしは、自分の文章を発見したのだ。

まず、大江本:

「実はマリ=アンヌの早婚には事情がある。彼女が十二歳の頃に、財務総監テレ師が三七歳も年上で財産もなく評判も悪い(自分の愛人の弟)ダメルヴァル伯爵との縁談をもちかけてきたのだ。この理不尽な申し出を断るには誰かと結婚させてしまうしかないと思った父は、同僚でもあり、科学アカデミーの助会員で将来性ある青年ラボアジエに白羽の矢を立てたのである。[...]おそらく新婚の時点で、この幼な妻は十五歳年長の学者の夫によって、研究の道へと引き込まれている(大江本, p.150)」。

次に川島論文:

「実はマリー・アンヌの早婚には事情がある。彼女が12歳の頃に、テレ師がポールズに奇妙な縁談をもちかけたのである。相手はなんと37歳も年上で−これは当時としても相当の年齢差だが−財産もなく評判も悪い(テレ師の愛人の弟)ダメルヴァル伯爵である。[...]
ともかくも、娘をこの縁談からのがすには,誰かと結婚させてしまうのが確実だと思ったポールズは、同僚でもあり、科学アカデミーの助会員で将来有望な28歳の青年、アントワーヌ・ローラン・ラヴワジエを選んだ。[...]おそらく新婚の時点で、この幼な妻は15歳年長の学者の夫によって、彼の研究に引き込まれている(川島論文, 2004, pp.66-67)」。

 切り貼りはしているものの、紛うかたなき川島論文からの文章の借用である。見てわかるように、引用したということわりは一切ない。しかも参考文献のページに川島慶子の名前は存在しない。すぐさま怒り狂ったのだが、よく見るとこの論文が載っている「『化学史研究』第31巻 第2号」(大江本, p.263)という記載はある。こんなおかしな記載方法があっていいのか。論文を挙げる場合は作者名とタイトル、雑誌名、巻号、年代を全部記載するのが常識である。これでは大学生のレポート以下ではないか!

 ともかく引用符もなしに他人の文章を借用するのは著作権法違反である。分量が少ないので裁判で勝てるケースではないが、作者自身が抗議すれば講談社側としても無回答ではいられないだろう。ここにいたって私はついに直接の被害者となったのである。

 そこで抗議文を講談社社長宛てに送ることにした(1)。先に十川さんも担当編集者あてに抗議文を送っていた(2)。そして当初からこの問題に義憤を感じていた仲間も、一科学史研究者としての立場で講談社に抗議文を送ってくれた。さあ、回答待ちだ。

 返事を待っている間にも大江本の調査は続行していた。というのも、すでにあちこちの新聞や雑誌でこの本が好意的に紹介され始めていたからである。できるだけ早く次の手を打たないと、この本が「女性の味方」の本として認知されてしまう。十川さんはじめわれわれ3人は、この時点ではもう「絶対に問題はこれだけではないはず」という確信を持っていた。まず最初に重大発見をしたのは小川さんである。彼女はブルーバックスだけでなく、大江氏がこの本を書く前に同じテーマで12回にわたって雑誌連載した記事の調査を思いついたのである。そしてこの調査こそが驚くべき事実を明らかにしたのであった。

 なんと「科学を支えた女性たち」というテーマで『未来材料』という雑誌に連載された記事(以下、「大江記事」とも略)から、ブルーバックスの比ではない分量の盗用が発見されたのだ。小川さんはここで自分の文章が何行にわたっても丸写しされているのを発見する。もちろん出典については何の言及もなされていない。しかもここで盗用された小川さんのテーマは、彼女の見解が洗練されるにつれ、大江氏の見解も洗練されるという進化過程をたどっているのである(3)。そしてこれは盗用全体のホンの一部でしかないのだ。

 われわれがこの調査をおこなっていたころ、やっと講談社から回答が来た。信じられない内容だった。何と担当編集者は(わたくしの文章をうつしたことや、工作舎本のタイトルを無断借用したことへの謝罪と対策については書いてあったが)大江氏はシービンガーの本については原典、翻訳ともに読んだこともなく、他の工作舎の翻訳の存在も知らなかったと書いてきたのである。このインターネット時代に、邦訳があることも調査せず、こんなテーマの本を書いたのか? わざわざ参考文献でいくつかの欧米のサイトを紹介しているのに、日本のことは一切調べなかったとでも? そんなことがあるだろうか?

 ここで新たなことが判明した。見つけたのは十川さんだ。工作舎から出ている『お母さん、ノーベル賞をもらう』のマグレインの原本と大江本との比較から、大江氏が工作舎の翻訳を本当に知らなかったことがわかったのである。なぜか。なんと大江氏は英語の原本を自分で翻訳し(もちろん引用符は一切なく、あたかも大江氏自身の文章のようになっているが)、しかもその翻訳がいたるところで間違っていたのである(4)。「大江氏も担当編集者もウソはついていない。彼らは本当に翻訳の存在を知らなかったのだ」われわれは確信した。しかし今度は別の怒りが沸き起こってきた。盗用問題は別として、こんな基本文献も知らない人間が堂々とこの分野の専門家のような顔をしてブルーバックスを書くのか。ブルーバックスは私の中学・高校時代の愛読書だった。それは私に科学への夢を育んでくれたのだ。新しい本が出るのはいつも楽しみだった。あのブルーバックスがいつの間にこんなことに...

 ともかく、すでに工作舎がお金を払って版権をとっているマグレインの本の文章を黙って(しかも間違って)翻訳し、そのことに一切触れていないというのは、国際的な著作権法違反である。ここにいたってついにこの問題は国際問題にまで発展したのである。

 このあたりまでは、わたくしたちはこの問題を主にジェンダー問題の枠内でとらえていた。というのも、発見された被害者は、われわれ自身も含めてみんな女性(それも主に日本人女性)だったからである。本のテーマがテーマだけにわれわれの意識がそこに集中したのは当然といえば当然だったが、よく考えるとここまで常識はずれのことをする人間が「女だけをターゲットに盗用を働く」はずはなかった。盗用は実は手当たり次第だったのである。

 わたくしはとりあえずここまでの調査でわかったことを整理してみた。まず

1)大江氏は無防備である(盗用を巧妙に隠したりしていない)。

2)大江氏は英語がそんなに得意ではない。

3)大江氏はたぶんフランス語は読めない。というのも、彼はデュ・シャトレ夫人について、英仏文両方のホームページを挙げているが(大江本, p.262)、フランス語版を読んでいる気配がない。

そしてたぶん、

4)大江氏は、現代はともかく、18世紀以前の話には本当の意味での興味、関心はない。

 だとしたら、古い話にほど、安易な盗用が見られるはずである。私は再びラヴワジエ夫人の部分に着目した。というのも、夫人に関する内容は明らかに私の論文から得た知識だが、ラヴワジエに関してはそうではなかったからだ。これも日本語からの知識に違いない。そこで後ろの参考文献を見ると、あるある、中川鶴太郎著『ラヴワジエ』(清水書院)という本が載っている。さっそく取り寄せて読んでみた。ここで恥ずかしながら告白すると、私はこの時代の専門家でありながら、この本の存在を知らなかった。ところがこれは志の高い名著だったのである。この本との出会いを用意してくれたことに関しては大江氏に感謝している。ご興味のある方はぜひご一読を。

 で、話は戻るが、この本と大江本、大江記事を比べてみた。そうしたら出るわ出るわで、とりわけ『未来材料』の方にものすごい量の盗用が発見されたのである(5)。男性の被害者発見!中川氏に連絡をとろうとしたら、すでに故人であった。仕方がないので清水書院に手紙を書き、事の次第を伝えたのである。もちろん先方は驚き、講談社に抗議するとの返事が来た(この先の具体的な仔細は知らない)。

 さらに調査を進めると、やはり参考文献にあった翻訳『男装の科学者たち』からも大量の盗用が発見された(6)。この本は女性2人、男性1人で翻訳している。またまた男性の被害者発見、というわけだ。これについては小川さんも同様の調査をしており、翻訳者たちには彼女が連絡をとることになった。

 もっと調査しても良かったが、もう十分だった。ここまでだけで確実に司法の場でも勝てる。わたくしたち3人はそれぞれが調べたことをばらばらに講談社に伝え、このブルーバックスの回収・絶版を要求したのである(7)(8)。わたくしはこの第二の抗議文(7)で、大江氏のもうひとつのブルーバックス『早すぎた発見、忘れられし論文』についても調査するよう講談社に示唆した。これが大江氏の「仕事」なら、たぶんジェンダーとは何の関係もない他の作品でも同様のことが行われている可能性が高いと踏んだからである。

 わたくしたちは返事を待った。もう講談社も逃げられまい。あとは「いつ」決断するかだけだ。待つことおよそ20日。ついに3月8日、講談社は大江氏が書いた2冊のブルーバックスを、著作権法違反の本として認め、これの回収・絶版を決定した。このニュースは3月10日に四大紙他のメディアで報道された(ネットのニュースは主に3月9日)。やっぱりもうひとつの本でも同じ「仕事」がなされていたのだ。とりあえず私たちは目的を達成したのだ。



3.事件とバックラッシュ

 ところがここで別の問題が起きてきたのである。一つ目は講談社の最終回答以前に少し起こりかけていたのだが、大江本の絶版・回収を機会にさらに盛り上がった問題である。もうひとつの問題は、講談社の事件報告のありかたとそれを受けたマスコミ報道に関係するものである。

 第一の問題はまさに近年のネット社会と深い関係がある。大江氏による大量盗用の事実を伝えたにもかかわらず、講談社の対応があまりにも鈍いことにしびれを切らし、十川さんが2月27日付けでフェミニズムと科学史のメーリングリストにこのことを訴え出た(9)。この最初の書き込みには具体的情報をほとんどいれなかったので、これでは事態が正しく伝わらない恐れがあると判断した十川さんは、盗用の具体例を書き込んだメッセージをあらためて流した(10)。ところがこれらがあちこちで、おかしな形で議論され始めたのである。

 最近のジェンダー・バッシングの傾向を考えると、反フェミニストによるある程度の中傷は仕方がないと思っていた。しかし、こちらが盗用の具体例を示したにもかかわらず、大江本の違法性が正しく認識されず、普段はフェミニズムを支持している人々の中にさえ、この事件を誤解する者が登場したのである。彼らの批判の主眼は「女性の大学教員がささいなことでジャーナリストをいじめている」というものである。つまり彼らはこの問題を、大江氏が色々な本からその内容を単に「要約」しただけなのに、それに対して女の学者がよってたかって「専門性が低い」と抗議したと解釈したのである。

 これは奇妙な批判だった。十川さんによる2回目の書き込みを見ておらず、講談社の最終回答が出る以前の段階なら、この手の誤解もわからなくもない。しかし、この、「女学者によるジャーナリストいじめ」という批判(しかも批判者の多くはいわゆる「学者」である)は絶版・回収の新聞報道後も続いたのだ。講談社はあの本だけでなく、もう1冊のブルーバックスも絶版・回収にしたのだ。単なる「要約」で、出版社がそんなことをするはずがないと、どうして彼らは考えないのだろう。わたくしにはどうしてもこの誤解が理解できなかった。小川さんがかなり具体的な反論を載せて、フェミニズムのサイトにおける事実誤認の反論は消えたが(11)、巷の間違ったうわさを完全に抑えきることはできなかった。驚くなかれ、わたくしはつい最近(2006年9月)法学の専門家からもそのことで直接いやみを言われた。彼はいまだに、あの本は要約のよせあつめ本だと思っているのだ。

 さて、もうひとつの問題は事件報道のありかたである。講談社はまず、この事件を自社のサイトと雑誌『本』で報道した。しかしそこでは仔細は語られず、2冊のブルーバックスが著作権法違反で絶版・回収されたことだけが簡単に述べられた。これをうけて新聞各社がこのことを報道したが、そこではなんと外国の著作権法違反ばかりが強調され、日本人、それも女性の被害者のことはほとんど語られることはなかった。わずか読売新聞のネット上の記事(Yomiuri Online)だけが「『科学史から消された女性たち』では、盗用が指摘された書籍の著者や訳者の大半が女性研究者だった」という文章を記事の最後に述べたのみである。しかもこの文章は紙の新聞では削除されてしまった。

 新聞がこの事件を記事にしてくれたことはうれしかったが、この報道の仕方はわたくしにはショックだった。どうして外国の被害ばかりが強調されるのか。どうして読売はせっかくネットに書いた女性被害者の話を紙の上では削るのか。工作舎の本のタイトルであったかどうかにかかわらず、『科学史から消された女性たち』などという本の著者が女性たちの地道な仕事を盗んだのだ。そのことの意味がどれほどのものか、どうして誰も報道してくれないのだろう。

 それだけではない、わたくしたち3人は2冊の本の絶版・回収をネットや新聞を見てはじめて知ったのだ。つまり講談社は当初からこのことで抗議していたわたくしたちには、事前にそのニュースを知らせてくれなかったのである。講談社は3月9日付けの速達で絶版・回収の処分について知らせてくれた。たしかに3月9日は決定の翌日である。しかし当然だが、その郵便がわたくしの元に届くのは新聞報道のあとである。この順序はいくらなんでもおかしいのではないか。常識で考えれば、まず講談社は被害者に調査結果とそれへの自社の対応を知らせてから、外に向かって報告するのが筋ではないのか。電話かメール一本、ファックス一枚でもいい、ネットに記事が出る前に、とりあえず被害者にこの決定を知らせることがどうしてできなかったのだろう。

 講談社のちぐはぐな対応と、ネット上で広がってゆく誤解はわたくしたちを疲れさせた。どうやってこの問題をおさめればいいのだろう。



4.明日に向けて

 話がとぶようだが、わたくしは勤務先の大学でハラスメント相談員(主にセクシュアル・ハラスメント担当)をしている。その関係で他の組織のセクハラ事件についてもいろいろと情報が入ってくる。だから今回の問題でも、1次被害だけでなく2次被害、とくにジェンダー・バッシングに対しては覚悟していた。問題の本のタイトルがタイトルだし、フェミニズムのサイトに訴えたし、反フェミニストの嫌がらせは楽しくはないが、「当然そうくるだろう」という予測はついていた。しかし先の「知識人」たちによる批判−女性の大学教員がささいなことでジャーナリストいじめをしている−は予想外のできごとであった。

 さまざまなハラスメントの被害者同様、十川、小川、川島の3人はただ不正を正し、自分たちの被害を相手に認めさせて、真の啓蒙と文章の盗用とは別のことなのだということを公にはっきりさせたかっただけである。どんなハラスメントでも、最初から加害者を罰したいと思って訴えてくる被害者はまずいない。被害者はたいてい、「自分が被害者だ」ということを公に認めてもらいたいだけなのだ。ところがいったん訴え出ると、さまざまな思惑を持った敵と味方が現れ、話が混乱してきて、2次被害が生じる。弱者には非常につらい状況だ。ここで話をそらしたらなにもかもむちゃくちゃになる。

 わたくしたちはこの混乱をなんとかしたかった。特に、この事件では日本人被害者が多数おり、そこでも著作権法違反があったのだということを講談社に公に発表させる必要があると考えた。そこで再度講談社と交渉に入ったのである。さまざまなやり取りの末、十川さんと小川さんが講談社側と直接交渉することができた。結果、講談社は自社の雑誌である『本』(2006年7 月号)と、自社のホームページに、この度の事件に関して、日本・外国双方における著作権問題があり、それが2冊の本の絶版・回収につながったという一文を載せることになったのである(講談社サイト)

 それはささやかなことではあったが、この混乱の中で話をそらさず、たとえ地味なことでも本質だけを問題にしたいというわたくしたちの方針を貫いたできごとではあった。再度強調したいが、これはハラスメント事件に関してはものすごくむずかしいことなのだ。わたくしはここで、「女性の大学教員がジャーナリストいじめをしている」という批判に対してひとつだけ主張したいことがある。それは、「大学の先生」というステイタスがあったからこそ、被害者は比較的落ち着いた行動がとれたということだ。もしわたくしたちがフリーの翻訳者や非常勤講師ばかりだったら、そもそも大出版社に訴え出る行為そのものが心理的に難しかったろう。しかも通常、そういう人たちの方が被害者になる確率は高いのだ。

 だからわたくしは、最後のこの小さな一歩をとりわけ重要なことと考えたい。かの有名な「個人的なことは政治的なことだ」というセリフは、第2派フェミニズムのなかで生まれたものだ。この事件全体はこのセリフを体現しているといってよい。事件の発端から今日まで、わたくしたち個人にふりかかったすべての被害は、まさに、ジェンダーに、国籍に、法律その他のさまざまなことがらに関する今の日本人の心性を象徴している。事件に関する誤解は今も続いている。それでもわたくしたちはあきらめない。それについて考え続け、行動することの中にだけ、希望ある未来が存在するのだから。



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参考文献(登場順)

  • 大江秀房著『科学史から消された女性たち』講談社, 2005.
  • Londa Schiebinger, The Mind has No Sex?, Harverd Univ. Press, 1989.
    小川眞里子,藤岡伸子,家田貴子訳『科学史から消された女性たち』工作舎, 1992.
  • シャロン・マグレイン著『お母さん、ノーベル賞をもらう』中村友子訳, 中村桂子監訳,工作舎, 1996.
  • デサンカ・トルブホヴィッチ=ギュリッチ著『二人のアインシュタイン』 田村雲供・伊藤典子訳, 工作舎, 1995.
  • 川島慶子「マリー・アンヌ・ラヴワジエ(1758--1836)—二つの革命を生きた女—」『化学史研究』, 第31巻 第2号, No.107, 2004: 65-95.
  • 大江秀房「科学を支えた女性たち」『未来材料』(株)エヌ・ティー・エス発行(2003年6月より23回連載)
  • 中川鶴太郎著『ラヴワジエ』清水書院, 1991.
  • マーガレット・アーリク著『男装の科学者たち』上平初穂他訳, 北海道大学出版会, 1999.
  • 大江秀房著『早すぎた発見、忘れられし論文』講談社, 2004.


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    プロフィール

    川島慶子(かわしま けいこ)
    京都大学で地球物理学、東京大学大学院で科学史を学んだ後、フランス国立社会科学学院において歴史学のDEA課程修了。現在、名古屋工業大学助教授。大学院生時代より、「ジェンダーと科学」の視点から18世紀フランス科学を見直す作業を続け、『化学史研究』『現代思想』『日本18世紀学会年報』などに発表。その一連の成果をまとめた著書『エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジエ』(東京大学出版会 2005)により、2006年度の女性史青山なを賞受賞。共訳書にエヴリン・フォックス・ケラー『ジェンダーと科学』(工作舎 1993)。 スペイン・サラゴサ大学理学部数学科主催の連続講演(1995)や、フランス国立図書館主催のデュ・シャトレ夫人展(2006)カタログ制作にただ一人の日本人研究者として参加するなど、国内外での活動も多岐にわたる。
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