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12月3日 毎日新聞 中村桂子氏 書評再録

市民科学者が残した美しい小説

 著者名を見て、“えっ”と思う方も少なくなかろう。原子力資料情報室代表として、脱原発社会をめざして、論理と科学の上に立っての発言と行動を続け、今年十月に直腸ガンで亡くなった、あの高木さんが最後のメッセージとして残した小説である。
 夫人が書かれた“あとがき”に、“子どものころは科学よりもむしろ文学をめざしていたそうで、詩や小説をよく読んでいた。リタイヤしたら小説の構想を練りたいとつねづね言っていた”とある。最後の最後の時間を使って語りおろされたこの作品は、もっと書き込みふくらませたいと思いながらその力を出すことができずに終わった、ともある。
 専門家が小説としてみた時の物足りなさはあるだろう。しかし、二十世紀後半に、真摯な科学者(著者の言葉を使うなら市民科学者)として生きた人が、次の世代に伝えたかったのはこれなんだというメッセージ性は、科学の言葉で書かれた論文や書物を越えるものがあり、思いは充分以上伝わってくる。
G県にある、深い森と渓流の美しい天楽谷のダム工事現場で不審な自動車事故があいついだ。転落した車に乗っていた作業員の、多数のカラスが現場付近で騒いでいたという証言から、カラスの射殺、更にはカラスを煽動した疑いでの工事反対派の長の逮捕・起訴へと展開していく。
 肺ガンで余命半年と言われている草野浩平は原発訴訟の裁判に証人として参加し、そこで感じた空しさに疲れ果てた体で乗った新幹線で、この事件への関与を依頼される。休暇を取りたいのに、カラスが裁かれる事件などに関わっていられるか……しかし結局彼は事件の現場天楽谷に行くことになる。
 天楽谷の区長であり、カラス煽動の疑いで逮捕された平嘉平は、春秋に公会堂でモーツァルト音楽祭を開催するなど、自然、文化、人間のすべてが豊かな地をつくりあげている人だ。登場人物としては浩平が著者と思う他ないわけだが、嘉平こそ著者が望んだ生き方をした人なのだろう。その描写には思いが込められている。体制と反体制、開発と自然保護などというみみっちい対立を越えた、論理や科学の枠をも飛び出した場にゆったりと生きたい。嘉平のような特別の人だけでなく、皆がそういう暮らし方ができる社会を作りたいという強い願いが、あれだけエネルギッシュな、そして魅力的な活動をさせていたのだと改めて思う。
 天楽谷で、嘉平以上に浩平を惹きつけたのは、嘉平の孫の摩耶だ。彼女は鳥と話し合える。とくに鳥たちのリーダー、トンビのアオとは心の通じ合う仲だ。アオと摩耶と浩平の不思議な三角関係……鳥がからんだ裁判の話はこうして進んでいくのだが、圧巻は法廷の場面だ。傍聴に参加する人々が列を作る頃、裁判所の庭から近くの公園までの木々には無数の鳥が静かに止まっていた。しかも、法廷に入った人々は、天井の梁にトンビ、カラス、ヒヨドリ、ムクドリ、モズ、ハヤブサなどが並んで裁判長の席を見下ろしているのに気づくのだ。シーンとした中の緊張感が感じとれるこの場面を思い描くと胸がしめつけられる。
 市民科学者としての活動は苦労の連続だったし、志半ばでの死去も無念だったろう。長生きして欲しかった。でも、美しい言葉とやさしさに満ちたこの小説を読んで、なんとみごとに生きた人だろう、幸せな一生だったにちがいないと羨ましくなった。


中村桂子(なかむら・けいこ=JT生命誌研究館 副館長)

*中村桂子氏プロフィールはJT生命誌研究館のHP をご覧ください。
 こちらには、氏の「ちょっと一言」が連載されています。




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