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ルネサンス・バロックのブックガイド

第9回
フランセス・イエイツ
『薔薇十字の覚醒 隠されたヨーロッパ精神史

◉山下知夫=訳・工作舎・1986年・476頁


『薔薇十字の覚醒』

17世紀初頭、一般に「薔薇十字宣言」として知られる匿名の文書がドイツで出版された。人間の知識の新たな段階が間近に迫っていると宣言するこの文書は「魔術」「カバラ」「錬金術」を組み合わせた新しい科学的基盤を提唱する。本書は、ともすればオカルト的奇譚として軽視されかねないこの文書とそれにつづく一連の出来事を、当時のヨーロッパの政治史的・宗教史的・思想史的な文脈のなかに鮮やかに位置づけた画期的な作品である。

1613年、時のイギリス王ジェームズ一世の娘エリザベスは、はるばる海を渡りプファルツ選帝侯フリードリヒ五世(Friedrich V von Pfalz, 1596-1632)と婚礼の儀を交わした。イギリスとドイツのあいだに結ばれたこの婚姻は、ヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の結束を象徴するもの、ハプスブルク家を中心としたカトリック勢力に対抗するものとして当地の人々から熱烈な歓迎を受けた。夫婦が住まいとしたハイデルベルク城には最新の科学技術を用いた庭園をはじめ創意工夫が凝らされたが、それはこの結婚がイギリス・ルネサンスの光をドイツにもたらす動きでもあったことを示している。

著者はこの婚姻政策を政治的・宗教的な意義を持つだけではなく、アリストテレスやガレノスらを権威とする旧来の自然科学観を守るカトリック・ハプスブルク勢力にたいして、ヘルメス主義的・カバラ的なもうひとつの伝統にもとづく科学思想史的な潮流の再興をことほぐ象徴的な行為であったと解釈し、薔薇十字宣言はまさにこのような背景のもとに発表された「啓蒙の書」だったと位置づける。

ここで目指される自然科学観は宗派間での対立を和解させるような普遍的な知の光を求めるものであり、のちの啓蒙主義を彷彿とさせるものの、それは依然として魔術的な要素をふんだんにふくんでいた。それゆえに薔薇十字啓蒙運動は反発を招き、まもなく敗北する。そしてフリードリヒ一家は悲惨な末路をたどることになる。

一方、薔薇十字の知らせはヨーロッパ各地にもたらされ、フランスでは当時猖獗を極めていた魔女狩りと結びつき、イギリスでは英国学士院やフリーメーソンのひとつの揺籃となってゆく。薔薇十字という歴史上の運動はこうして時代的な思想風土へと溶解し、時は啓蒙の時代を待つばかりとなる。

(熊谷友里)


[目次より]
第1章 王家の婚礼
第2章 ボヘミアの悲劇
第3章 薔薇十字運動の潮流
第4章 ふたつの薔薇十字宣言
第5章 第三の薔薇十字文書
第6章 薔薇十字哲学の代弁者たち
第7章 ドイツの薔薇十字騒動
第8章 フランスを襲った薔薇十字恐慌
第9章 イギリスでの薔薇十字展開
第10章 イタリアの自由主義者と薔薇十字宣言
第11章 アンドレーエの薔薇十字解釈
第12章 コメニウスとボヘミア薔薇十字騒動
第13章 目に見えない学院から英国学士院へ
第14章 薔薇十字的錬金術へのアプローチ
第15章 薔薇十字主義とフリーメーソン
第16章 薔薇十字啓蒙運動
付録 薔薇十字宣言


薔薇十字の目に見えない学院
薔薇十字の目に見えない学院


[執筆者プロフィール]
熊谷友里(くまがい・ゆり): 宗教哲学、カトリック思想史、典礼学。東京大学大学院(宗教学)博士課程。論文に「ニコラ・バレ:活動的霊性の構造」、「プロスペル・ゲランジェの典礼霊性:言葉によって、時間のなかで」がある。




◉占星術、錬金術、魔術が興隆し、近代科学・哲学が胎動したルネサンス・バロック時代。その知のコスモスを紹介する『ルネサンス・バロックのブックガイド(仮)』の刊行に先立ち、一部を連載にて紹介します。




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