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日本経済新聞 富山太佳夫氏書評



1月16日 産経新聞 垂水雄二氏書評再録

“知の巨人”の生涯を照射

 ダーウィンの『種の起原』の成立は謎に満ちている。なぜ彼は、その構想を抱きながら二十年間もそれを公にすることがなかったのか、なぜ生涯をダウンの田舎ですごし、体の不調に悩まされつづけなければならなかったのか。なぜ進化思想の先駆者への謝辞が乏しかったのか。これらの疑問ゆえに、ダーウィンが陰謀によってウォレスからその理論を剽窃したのではないかという憶測さえ生まれたほどである。
 本書は、そうした疑問のほとんどを氷解させるだけの力をもつ決定版ともいえる伝記である。もちろん、その背景には1980年代以降の「ダーウィン産業」と揶揄されるほど量産されたダーウィン研究、とりわけ新しい『書簡集』と『ノートブック』の刊行があった。これらの新資料を武器にして、二人の著者(一人は主として学問的側面を、一人は社会的・歴史的側面を専門とする最適のチーム)は、ダーウィンその人の知的関心の推移と当時の社会の動きを克明にたどっていく。
 こうして『ビーグル号航海記』から『種の起原』を経て『ミミズ』に至るまでの全著作物の形成過程が、新しい光の中に照らし出され、数々のダーウィン神話が突き崩され、そして、歴史に翻弄されながらその中に屹立した、19世紀の一人の巨人の姿が浮かびあがる。
 なかでも、第一部にあたる1809-31年までの記述は、彼が秘かに抱きはじめた思想の公表が当時においてどれほど危険なものであったかを、骨身に浸みるほどに分からせてくれる。

 定価があまりにも高すぎるが、一読の価値は十二分にある。

垂水雄二(たるみ・ゆうじ=科学ジャーナリスト)








11月21日 日本経済新聞 富山太佳夫氏書評再録

19世紀を象徴する巨人の肖像

 伝記文学の傑作。いかにもイギリスの知識人が好みそうな大部の評伝のみごとな手本というところか。進化論の確立者ダーウィンの伝記を評するにあたって、まずその事実の記述の正確さをたたえるまえに、その文体をほめるというのは奇妙に思えるかもしれないが、そうではないのだ。これだけ大部の伝記を成功させたのは、<事実>を配置する文体の力にほかならない。
 二人の著者は、ダーウィンをめぐる事実をいわゆる科学史、進化論史の中に封じ込めないで、もっと広い歴史の中で読み解こうとしたのである。十九世紀という時代の性格を考えれば、それはしごくまっとうな方法ではあるのだが。ともかく二人はこう断言している——「我々は思いきって社会的な肖像を描いてみる。我々はヴィクトリア時代の公けの事件や制度、選挙法改正案、救貧法をめぐる騒動、学術団体、産業の革新、ラディカルな医学、教会をめぐる論争……などとのつながりも考えてみる」。
 当然ながら、そこから浮上してくるのは、ビーグル号、ガラパゴス島、進化論、そしてミミズによって構成される科学者の姿ではなくて、ヴィクトリア時代を生き抜いた人物の肖像である。よくもこれだけたくさんの矛盾を抱え込めたものだと感心したくなるくらいだが、しかしその意味では、ヴィクトリア女王も、ナイチンゲールも、ディズレーリも、アニー・ベザントも同じであった。矛盾だらけの巨人を輩出したのが十九世紀という時代である。
 その一人ダーウィンがその著作、ノート、手紙、日記の中から立ちあがってくる。結婚のいきさつ、日常生活、さまざまな人とのつきあい、宗教観、病気とその信じがたい治療法。そして何よりも進化論をめぐるためらいと決断。この本には面白くないことはひとつも書いてないと言ってもよいくらいである。

富山太佳夫(とみやま・たかお=成城大学教授)




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