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ルネサンス・バロックのブックガイド

第15回
エラスムス『痴愚神礼讃 ラテン語原典訳

◉沓掛良彦=訳・中公文庫・2014年・363頁


『痴愚神礼讃』

痴愚女神は語る――「エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)のことが聞きたいのですって?いつだったか私のおしゃべりを書き取っていったオランダ人よね。出版されたのは1511年でしたっけ?

その人がイタリアからイギリスに帰って、お友達のトマス・モア(Thomas More, 1478-1535)の家に落ち着いたとき、話を聞きに来たのですよ。それで修辞学の練習弁論を真似して一席ぶってみたのです。あのころの知識人なら誰でも、教師に「何々を礼賛せよ」とか「誰々を弁護せよ」なんてお題をだされて弁論をひねりだしたことがあるはずだから、面白いと思ってね。たとえば最初のほうで私の氏素性やお仲間について話しているのは、弁論術のトポス、つまり決まり事だからですよ。

はじめのうちは、賢い方々(当時流行のストア派にかぶれた連中のことですよ)に比べて、私の崇拝者たちがどんなに幸せか話しました。人生を楽しむのに知性や理性がお呼びでないのは、いつの時代も同じですからね。

ちょっと調子が変わったのは、天上から世界を見下ろして、私の崇拝者たちを数え上げ始めたときでした。ここは古代の風刺作家のルキアノス(Lucianos, 125-180)を真似たのですよ。文法学者とか弁論家とかだけなら良かったけれど、神学者や修道士の話を始めると熱が入ってしまって。教皇をはじめとする聖職者たちのことも、イタリアで見てきたばかりでしたから、長々と話しました。この人たちは、自らの重い責務のことを真面目に考えたらひどく苦しんだり恥じたりしなきゃいけないけれど、私のおかげで楽しくやっていられるってね。

それから最後に、ことわざや聖書の言葉を引用して結びにするつもりだったのに、聖書を引用しているうちに、キリスト教には愚かさと通じるところがあると言いたくなったのよね。神に憧れて物質的なものを軽視したり世間一般の情念を退けたりする人は、愚かだと言うこともできますからね。

こんなふうに神学を茶化したりカトリック教会とキリスト教の理想のことを話したりしたものだから、宗教改革の下地を作ったなんて言われてしまったのは、エラスムスも悩んだそうですね。お気の毒だけれど、そんなに大きな影響があったのは、この馬鹿の言葉にもいくらかは真実が含まれていたってことなのでしょう」

(田邊まどか)


[目次なし]

ホルバイン作「エラスムスの肖像」
ホルバイン作「エラスムスの肖像」


[執筆者プロフィール]
田邊まどか(たなべ・まどか): スペイン文学。早稲田大学非常勤講師。文学博士(コルドバ大学、2016年)。研究領域は、16・17世紀の文学、とくにルイス・デ・ゴンゴラの詩作品。




◉占星術、錬金術、魔術が興隆し、近代科学・哲学が胎動したルネサンス・バロック時代。その知のコスモスを紹介する『ルネサンス・バロックのブックガイド(仮)』の刊行に先立ち、一部を連載にて紹介します。




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